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ソ連軍の戦車 1

MS-1 / T-18
T-18m (P)
T-27
OT-27
KT-27(P) / SU-3(P)
Vickers Medium Mk(English Workmen)
Vickers Mk.E A
T-26 M1931 / T-26 TU M1931 / T-26TU M1932
T-26 M1933 / T-26 M1937 (中国)(スペイン
T-26 M1938 / T-26-1 M1939
T-26E
OT-26 / OT-130 / OT-133 / OT-131(P) / OT-132(P)(フィンランド)
T-26 Mineroller
SU-5-1(P) / SU-5-2 / SU-5-3(P)
SU-6(P) / AT-1(P)
SU-26 (SU-76P)
T-37A (フィンランド)(ルーマニア)(ハンガリー)
SU-37(P)
T-38 (フィンランド)(ルーマニア)(ハンガリー)(ドイツ)(イタリア)
SU-45(P)
T-40  /  T-40S
T-30
T-50 / T-50E (フィンランド)
T-50-57(P)
T-60 M1941 / T-60 M1942 (イタリア) (ルーマニア)
BM-8-24
T-70 M1942 / T-70 M1943 (ドイツ)(チェコ
T-80

MS-1/T-18

ソ連のT-18軽戦車、別名MS-1

ソ連で初めて設計された戦車です。

ソ連の戦車作りは赤軍が雪中で鹵獲したルノーFT-17から始まりました。


ロシアで鹵獲されたルノーFT-17

当時、ロシアでは戦車を作る技術はありませんでしたが、1918年にこのルノーFT-17を解体、分解しながら研究は進められました。

そして1921年にほぼ完璧なコピー車輌が15輌完成、この車輌を「RusskyReno」(ロシアのルノー)、または「KS戦車」と名付けました。

1924年、ソ連では戦車開発局が設立され、最初に2人用軽戦車の開発が進められました。

1927年に試作車輌T-16ができ、この車輌の欠点を改良したT-18が完成。

1928年から1931年まで960輌が生産されました。

T-18は1929年、極東での中ソ紛争に実験的に使用されましたが、さすがに1930年代には火力不足と弱装甲となり、1932年からは訓練用として使用されました。

主砲はルノーFT-17と同じ37mmピュトー砲ですが、実際はホッチキス37mm砲という19世紀にホッチキスが開発した艦砲をロシアで改良した砲が搭載されていました。

BA-27にはこのホッチキス37mm砲が搭載されています。

スピード6

装甲値2


T-18m (P)


ドイツ軍に鹵獲された45mm砲のT-18(P)

T-18の改造型T-18m

1937年、ソ連は装甲車輌の近代化を進めました。

それまで旧式化していたT-18はエンジン・砲塔を新しくし、主砲を45mm砲に改造されました。

1938年から改造が行われ、約200輌ほどが作られたと言われています。

独ソ戦では戦場に投入されたと言われていますが、ゲームではプロトタイプ(試作車輌)として登場します。


T-18m (P)の (P)は、PrototypeのPです。

主砲は45mm対戦車砲の戦車砲

T-27


手前の小さい車輌がT-27

ソ連のT-27豆戦車

ソ連では小型で軽量な偵察車輌を作る計画が立てられ、独自の試作車輌が作られましたが、どれも成功しませんでした。

1929年にイギリスのカーデンロイド豆戦車を26輌購入し、この車輌が偵察車輌に向いていることが分かり、カーデンロイドを改良し、独自の豆戦車の開発をしていきます。

デザインはカーデンロイドと同じですが、エンジンや車内などが改善されました。

1931年からレニングラードのGAZ自動車工場で生産が始まり、1934年までに3155輌という大量生産がされました。

これはソ連で初めての大量生産された車輌です。

1932年のバスマチ蜂起で偵察車輌として使用されましたが、雪の地形をうまく走行できなかったそうです。

1940年まで配備され、その後は砲牽引用トラクターとして使用されました。

武器の機銃は7.62mmDT軽機関銃。

これはDP28軽機関銃の車載用機関銃です。

装甲値は前面のみ2

ソ連では10mmと強化されました。

こちらは砲牽引用トラクター(Artillery Prime Mover)

主に45mm対戦車砲を牽引しました。


OT-27


ソ連の火炎放射戦車OT-27

T-27を改造して作られた火炎放射器を装備した車輌です。

ソ連で作られた最初の火炎放射戦車です。

1933年までに187輌が作られました。



火炎放射器の回数が大幅に修正されました。

そして取り除かれた機銃が搭載されています。


KT-27(P) / SU-3(P)


KT-27

ソ連のKT-27自走砲

T-27の車体を改造し、76mm歩兵砲を搭載させたオープントップの自走砲

1932年から1934年に開発が行われ試作車輌が完成しましたが、試作車輌のみで終わりました。

SU-76という自走砲が後に開発されましたが、これも一応、SU-76と呼ばれています。



主砲は76mm KT-28歩兵砲

この砲はT-28に使用されました。

プロトタイプ(試作車輌)として登場します。


SU-3

ソ連のSU-3、またはT-27K、SU-76K

この車輌もT-27の車体を改造して1932年に作られました。

しかし試作車輌のテストの結果、砲の振動が強すぎ、故障が多発したため完成には至りませんでした。

砲は改良型76mm無反動砲というソ連が1920年代から1930年代に開発していた砲です。


砲口は右側です→

砲の開発者はクルチェフスキー技師。

クルチェフスキーは結局、無反動砲の開発がうまくいかなかったため、1937年に死刑になっています。


主砲は76.2mm K/DRP RG無反動砲

この車輌もプロトタイプとしてのみ登場します。


Vickers Medium [English Workmen]

イギリスのヴィッカーズ中戦車

詳細はこちら

ソ連は1931年に15〜16輌のMk 兇鮃愼しました。

砲塔の司令塔がなく、特別な改造がされていたそうです。

ソ連ではニックネームとして「イングリシュ・ワークマン」と名付けられました。

ゲームでも購入時に[English Workmen]の中で購入できます。

主砲は3ポンド砲のMk気諒が装備されています。

フィンランドとの戦争で使用され、フィンランド軍により鹵獲されました。


Vickers Mk.E  A

イギリスのヴィッカーズ6トン戦車

詳細はこちら

ソ連はヴィッカーズ6トン戦車の最初の購入国でした。

1930年に双砲塔型のType Aを15輌購入し、同時に自国でのライセンス権の契約もしました。

わずか15輌の購入でしたが、ソ連ではすぐにこの戦車の研究が始まりました。


主武器は7.62mm DT機関銃2挺

この車輌を改良してT-26が完成、大量生産がされていきます。


T-26 M1931 / T-26 TU M1931 / TU M1932


T-26 M1931

ソ連のT-26軽戦車

ソ連ではT-18に続く新しい車輌の開発が進められていましたが、T-19とT-20どちらも試作で終わり、完成しませんでした。

ソ連のエンジニア技師であったS.A.ギンズバーグは購入したVickers Mk.E をすぐにソ連で大量生産が行えるようにエンジン、車体、トランスミッションなどを改良していき、T-26として正式に採用されました。

1931年8月から生産に入りました。

最初のタイプは主武器が7.62mmDT機関銃2挺


右が37mm砲、左が機関銃のT-26TU

また少し遅れて双砲塔の右側に37mm砲を装備したタイプも作られました。


主砲がフランスのホッチキス製の37mm砲

これは19世紀にフランスのホッチキスが作った艦砲をロシアでは改良した「ホッチキスPS-1」という砲のことで、フランスのピュトー37mmとほぼ同じ性能です。

当時のソ連には車載砲としての砲がこれしかありませんでした。


37mm B-3砲のT-26TU  M1932

新しい車載用の37mm砲として開発していたPS-2砲の生産が遅れたため、ソ連ではドイツの37mm対戦車砲とPS-2の部品でB-3という車載用37mm砲を作りました。

このB-3砲はPS-2砲に比べ、反動が少なく、砲尾が短いため簡単にT-26に取り付けられました。

(後にBT-2にも装備されました)

1931年後半から双砲塔の右に装備させました。

これがT-26TU M1932です。



B-3砲はM1931のホッチキス37mm砲とは威力が全く異なり優れた性能です。

T-26は全部で1万300輌が生産され、1930年代の最も多く作られた戦車です。

双砲塔型のT-26は1933年まで生産され、全部で2038輌が作られました。

T-26TU M1931は370輌、T-26TU M1932は約30輌が生産されました。

T-26 TUのTUは、ロシア語のコマンドタンクの意味で、無線機を搭載した車輌のことです。

車体に手すりのようなものがついており、これはフレームアンテナの役割を果たしています。

スペインや中国、トルコに輸出されました。

スペイン内戦やノモンハン事件、張鼓峰事件、フィンランドとの戦争、独ソ戦など多くの戦場で使用されました。


T-26 M1933 / T-26 M1937


ソ連のT-26軽戦車

1933年に改良型が開発されました。

砲塔が単砲塔となり、37mm砲から45mm砲に換装されました。

重量も増え、ゲームでも分類が軽戦車から中戦車になっています。

主砲は45mm砲

これは45mm対戦車砲M1932の車載用(20-K)で、ソ連では多くの車輌に搭載されています。

副武装は同じ7.62mmDT機関銃

装甲は15mm

スピード(移動力)は12から10に落ちています。

生産は1687輌


T-26 M1937


M1937製もほぼ同じですが、こちらは砲塔後部に機銃が取り付けられたタイプです。

ゲームに登場するのは砲塔上部に対空機銃(AAMG)が取り付けられたタイプです。

M1937は3141輌が作られました。


T-26 M1938 / T-26-1 M1939


ソ連のT-26軽戦車

1938年に改造されたタイプは砲塔の形が円錐形、傾斜砲塔に変わりました。


砲塔の後部が違います。

どことなくT-34のような感じがしてきています。


砲塔以外には大きな変化はなく、ゲームデータも同じです。

746輌が作られました。

そして最後のバージョンがT-26-1 M1939です。

1938年7月に勃発したハサン湖の戦い(日本名:張鼓峰事件)で、354輌の戦車(257輌のT-26)のうち、日本軍の対戦車ライフルや対戦車砲によりが46輌が撃破されました。

その中でT-26は、76輌が損傷、9輌が炎上しました。

(後に39輌が修理される)


日本軍に撃破されたT-26

この戦いでT-26の脆弱性が明らかになり、改良により砲塔にさらに傾斜が加えられT26-1になりました。


T26-1


若干、装甲が厚くなったと言われていますが、ゲームでは装甲値は変わりません。

T-26-1は1941年2月までに2678輌が作られ、これでT-26は生産が終了します。

この後、ソ連ではT-50が開発されましたが、T-50の生産が予定通り進まず、1941年7月から8月にかけて再びT-26の生産を行っています。

1939年9月のWW2が始める直前、ソ連には8500輌のT-26が部隊に配備されていました。

そして9月17日のソ連のポーランド侵攻では、ベラルーシ方面から878輌、ウクライナ方面から797輌のT-26がポーランドに侵攻しました。

1941年6月のドイツ軍のソ連侵攻時、ソ連軍は10268輌のT-26がありました。

それほどの数があったにもかかわらず、1941年の夏までに膨大な数の損失を出しています。

その後、次第にT-34に替わっていきましたが、1944年ごろまでまだ前線で使用されたそうです。

1945年8月のソ連軍の満州侵攻時、1461輌が部隊に配備されていました。

これは極東部隊にもともと配備されていたものです。

またスペイン(281輌)、中国(82輌)、トルコ(60輌)に輸出されました。

その他、フィンランド、ドイツ、ルーマニア、ハンガリー(1輌)では鹵獲した車輌が使用されました。

またドイツ軍では1943年に主砲を7.5cm PaK97に改造したPzKw 740(r)が作られました。


T-26E

ソ連のT-26軽戦車

T-26は装甲が15mmしかなかったため、スペイン内戦ではドイツ・イタリアの対戦車砲で多くが撃破されました。

またフィンランドとの戦争でもフィンランド軍に撃破されました。

1938年の日本軍との戦いでも多くの犠牲を出しています(上述)

そのため弱点を補うための改造が行われました。

15mmの装甲に30mmの装甲板をつけたのがこのT-26Eです。

EはEKRANAMI(エクラナミ)、増加装甲のことです。

フィンランドに登場するT-26Eとは違います。


武器は同じですが、装甲値が3→4、2→4と大幅に上がっています。

ただし重量が重くなり、スピードが10から8へと落ちています。

どれくらい作られたのかは分かりません。



OT-26 / OT-130 / OT-133
OT-131(P) / OT-132(P)


OT-26

ソ連のOT-26、OT-130、OT-133火炎放射戦車

ソ連ではHT-26、HT-130、HT-133とも言われています。

T-26には様々なバリエーションがあり、多くが実験的に改造が行われました。

その中でも多くの火炎放射戦車が作られました。

1932年に空気圧の火炎放射器を搭載させる実験が始まり、1933年から生産が行われました。

火炎放射の距離は約35m

OT-26は双砲塔のT1931型を改造したもの。

ツイン砲塔の一つをなくし、片方を放射器に改造しました。

約605輌が作られました。

火炎放射の回数は12回

射程は1

火炎放射の威力はHEAT弾の数値になっており14です。


OT-130

OT-130は、T-26 M1933の車体を改造して作られました。

画像を見て分かるように火炎放射の放射器が短いです。

401輌が作られました。


火炎放射回数は15回

射程1

威力は24(HEAT弾として)


OT-133

OT-133は、T-26 M1937の車体を改造して作られ、269輌が作られました。


火炎放射回数は15回

威力24(HEAT弾として)


試作車輌 OT-134

OT-134はT-26 M1938の車体に火炎放射器、砲塔には45mm砲を装備した車輌です。

2輌の試作車輌のみが作られました。


ゲームに登場するOT-131(P)は、記録には出てこない車輌ですが、OT-134の可能性が高いです。

購入は[Prototype]でのみ購入できます。


TT-26

TT-26のTTはテレタンクと呼ばれる車輌で、戦車を遠隔で操作できるように開発された車輌です。

ゴリアテのように有線ではなく、無線でリモート操作するものとして、1932年に開発が始まり、1936年ごろにT-26を改造することで試作車輌が作られました。

画像に砲塔上部にアンテナのような細いものが出ているのが分かります。

トーチカ内に立て籠もるフィンランド軍に対して作られました。

TT-26、TU-131、TU-132というタイプがあったようです。


ゲームに登場するOT-132というのは記録にはありません。

ここからはわたしの推測になりますが、

OT-132が火炎放射戦車であるということ
TU-132というリモート火炎放射戦車が存在する

このことから、OT-132はTU-132火炎放射戦車ではないかと思います。

TU-131リモート火炎放射戦車は30輌が生産されましたが、TU-132はよく分かりません。


T-26 Mineroller






ソ連のT-26を改造した工兵用地雷除去戦車

T-26は様々な実験的車輌を作り出しましたが、工兵作業用の車輌も作られました。

それが地雷除去戦車架橋戦車です。

↑の3枚の写真はT-26の車体前面に地雷除去のためのローラーを装備させています。

この3種類が実験的に作られましたが、どれも生産には至りませんでした。

しかしフィンランドとの戦争が始り、急きょ地雷除去戦車が必要になったためレニングラードの工場で約50輌が作られ、1940年2月に配備されました。


除去する地雷がないときは、戦車として使用できます。

またゲームには登場しませんが、T-26架橋戦車も紹介しておきます。


1940年までに約70輌が作られました。



SU-5-1(P) / SU-5-2 / SU-5-3(P)



SU-5-1

ソ連のSU-5-1自走砲

T-26の車体を利用し、様々な実験的な改造車輌が作られています。

SU-5シリーズは、「スモールトリプレックス」という愛称の自走砲ファミリーとして、3つのタイプの自走砲が作られました。

SU-5-1は76mm砲を搭載させました。


主砲の76.2mm M1902/30

6輌の試作車輌が作られましたが、AT-1が作られたことでAT-1に改造されました。


SU-5-2

スモールトリプレックスの2番目がSU-5-2

こちらは122mm榴弾砲を搭載した車輌。

1936年に31輌が作られました。

1938年の張鼓峰事件で実戦に使用されました。


主砲は122mm M1910/30榴弾砲

122mm砲を搭載した自走砲はソ連では貴重な車輌でした。


SU-5-3

3番目のトリプレックスのSU-5-3

こちらは強力な152mm臼砲を搭載していました。


主砲はM1931 152mm臼砲

3輌が生産され(別の資料では24輌)、ゲームではプロトタイプとして登場します。


SU-6(P) / AT-1(P)


SU-6

ソ連のSU-6対空自走砲

T-26の車体を利用し、76mm半自動高射砲を搭載させた車輌。

1934年に開発され、1935年に試作車輌が完成しました。

しかしテストの結果、車体に負荷がかかりすぎ射撃時に不安定になることから4輌のみが作られています。

主武器は76.2mmM1931砲

ゲームには76.2mm対戦車砲の方が搭載されています。


AT-1

ソ連のAT-1自走砲戦車

1934年に開発が行われ、1935年に試作車輌が完成。

76.2mm PS-3榴弾砲を搭載させた自走砲となりました。

テストも良好で、生産に入るかと思われましたが、開発者のシャチントフ技師がスパイ容疑で逮捕され、シャチントフが担当した全ての車輌は生産中止になりました。

シャチントフは1937年に死刑になっています。

AT-1は生産途中だった3輌が完成していましたが、その後は不明です。

主武器は76.2mm PS-3車載砲

ただし第3火器に主砲がついています。

この砲はシャチントフが開発に携わっていたため、シャチントフの逮捕により使用されなくなりました。


SU-26 (SU-76P)


SU-26

ソ連のSU-26自走砲戦車

T-26の車体を使った改造車輌のうち、最も遅く完成したのがこのSU-26

いろんな名称があるらしく、T-26-6、SU-26、SU-76、SU-76P、SU-T-26などがあります。

SU-76とも言われましたが、ソ連では区別するためにこちらをSU-76Pとしています。

独ソ戦の中、1941年に開発が行われましたがT-26自体がほぼ残っておらず、修理中の車体を利用して製造が行われたそうです。

(上の画像のようです)

大急ぎで生産が行われ、完成した車輌はレニングラードの工場からすぐに第124戦車旅団に送られました。

12輌が作られました。


主砲は76mm KT-28戦車砲


T-37A


ソ連のT-37A 水陸両用戦車

1931年、ソ連はイギリスのヴィッカーズ・アームストロング社で開発されたヴィッカーズ水陸両用戦車(VCL M1931)を8輌購入しました。

この購入はライセンス権との購入であり、ソ連国内では水陸両用戦車の生産計画が立てられていました。

すぐに研究が始まり、1932年にT-33が完成しました。

T-33はすぐに改良され、T-37が完成。

それと同時にモスクワの工場ではT-41が完成しました。

T-37とT-41はテストの結果、採用されませんでしたが、この2つのいいところを合わせたハイブリッドな車輌が作られることになり、T-37Aと名付けられました。

1933年から1936年までに2565輌が作られました。

主武器は7.62mm機銃1挺

スピード12(38km/h):水中2(6km/h)

装甲4〜8mm

1939年のノモンハンでの戦いで初めて実戦投入されましたが、この戦いで25輌中、17輌が撃破される結果になりました。

フィンランドとの冬戦争で435輌のT-37AとT-38が配備されました。

これはフィンランドの水の地形や障害に備えるためでしたが、貧弱な武器と薄い装甲のため、半数の211輌が撃破されました。

また独ソ戦以前のポーランドとの戦いでも使用され、4輌が破壊されています。

独ソ戦でも使用されましたが、1941年7月ころには一線から退いています。



SU-37(P)


SU-37 or SU-45

ソ連のSU-37自走砲

T-37の車体を利用し、45mm砲を搭載した自走砲。

画像が残ってなく、↑の画像はSU-37なのか、SU-45なのかはっきりしません。

実験的に試作車輌が作られましたが、45mm砲の重量に車体が耐え切れず、生産には至りませんでした。


主砲は45mm対戦車砲M1932/1937

プロトタイプとしての購入となります。


T-38


ソ連のT-38水陸両用戦車

T-37の改良型として作られました。

1936年から1939年にかけて1340輌が生産されました。

T-37よりも走行性能は上がりましたが、装甲や武器は当時のものとしても弱く、多くが撃破されています。

スピード15(40km/h)

装甲4〜9mm

1939年のポーランドとの戦い、フィンランドとの戦いにT-37Aと共に使用されました。

1941年以降は実戦に使用されなくなりましたが、1944年のドニエプル川を渡河する作戦では再び使用されました。


SU-45(P)


SU-45 or SU-37

ソ連のSU-45自走砲

↑の画像は、SU-37かSU-45かはっきり分かりません。

1935年に開発が行われ、1936年に試作車輌が2輌作られました。

SU-37同様、T-38の車体を利用し、45mm砲を搭載させましたが、やはり重量過多により完成には至りませんでした。

豆戦車を使ってのソ連の自走砲開発は、SU-45で打ち切りとなりました。


主砲はSU-37と同じ45mm 対戦車砲

プロトタイプのみの購入ですが、登場年代がなぜか1940年になっています。


T-40  /  T-40S


T-40

ソ連のT-40水陸両用戦車、T-40S小型戦車

1930年代のソ連には重戦車、中戦車、軽戦車、小型戦車(豆戦車)という区分があり、その小型戦車がT-37A、T-38でした。

T-37A、T-38は機銃弾が貫通するほど装甲が薄く、武器も機銃1挺しかなく、乗員が2名のため負傷した場合の操作性など多くの問題を抱えていました。

そこで新たな車輌を開発し完成したのがT-40です。

乗員は2名のままですが、装甲、武器が改善されました。

1940年から生産が開始されましたが、1941年6月25日、独ソ戦が始まってすぐにT-40の生産は中止されました。

短い期間で709輌が生産されています。


主武器は12.7mm DshK重機関銃

装甲は15〜20mm

ソ連は独ソ戦の影響で戦車が不足してしまったため、T-40を水陸用ではなく陸上用のみに改造し、T-40Sを完成させました。

歩兵支援用の戦車としてドイツ軍と戦いましたが、ドイツ軍の2号戦車よりも性能は悪かったと言われ、あっという間に多くの車輌が失われました。

1942年中ごろには一部の訓練用を除き、ほぼ全ての車輌がなくなったと言われています。



T-30


ソ連のT-30小型戦車

T-40の車体を改造し、主砲に戦闘機用の20mm ShVAK機関砲を搭載させた車輌。

1941年12月から1942年中ごろまで生産が行われ、約250輌が作られました。


主武器は20mm ShVAK(TNSh)機関砲

この車輌はT-60へとつながっていきました。


T-50 / T-50E


ソ連のT-50軽戦車

1930年代の後半のソ連軍の主力戦車はT-26軽戦車でした。

しかし他国ではT-26の性能を超えた性能の戦車が開発されており、ソ連では新たな戦車の開発を進めました。

1939年のドイツのポーランド侵攻の後、ソ連はドイツの3号戦車を鹵獲し検証しましたが、この3号戦車の衝撃が大きく、1940年を境にソ連は戦車の転換期を迎えました。

そしてハリコフ工場でT-34とレニングラード工場でT-50を生産することになりました。

生産は独ソ戦が始まる前の1941年4月を予定していましたが、独ソ戦が始まってもまだ生産が行われず、7月からようやく稼動しましたが、レニングラードの第174工場は8月に疎開、移転命令が出されました。

7月と8月に50輌が完成し、その後第174工場はシベリアのオムスクバルナウルいう地に移転し、そこで生産が行われました。

1942年7月、ソ連はT-50の生産を中止することに決定します。

理由はT-34の生産を増やすこと、T-50のエンジンを製造していた工場が全焼したこと、主砲の45mm砲はすでに威力不足だったこと、レンドリースでイギリスからバレンタイン戦車が入ってきたことなどです。

生産は1942年2月まで行われ、生産数は65輌〜75輌です。

レニングラードで最初に作られた50輌のうち40輌以上はレニングラード戦線に投入され、1943年9月に全損しました。

主砲は45mm obr.32/38対戦車砲の車載砲

スピード17(52km/h)

最大装甲45mm


フィンランド軍に鹵獲された装甲強化型

T-26の装甲を強化したように装甲強化型T-50Eが作られました。

最大装甲が57mmと増加しました。

性能は通常と同じですが、砲塔の装甲値のみが高いです。

T-50は現存写真がほとんど残っていませんが、皮肉なことにフィンランド軍に鹵獲された1輌のT-50Eの写真が貴重な写真となっています。


T-50-57(P)


T-126SP (T-50の試作車輌)

ソ連のT-50軽戦車の57mm砲バージョン

T-50の改造車輌ではなく、最初の設計の段階で57mm砲を搭載させるというプロジェクトがあったというものです。

しかしT-50が作られたと同時に独ソ戦が勃発したため、このプロジェクトは破棄されたため、試作車輌も作られませんでした。

57mm砲以外にも76mm砲や25mm対空砲を搭載するプロジェクトもありました。


主砲は57mm ZiS-4

試作車輌としてのみ登場します。


T-60 M1941 / T-60 M1942


ソ連のT-60軽戦車

T-40軽戦車は12.7mm重機関銃を装備していましたが、明らかに火力不足であったため、1941年6月25日に生産中止が命令されました。

これは独ソ戦が始まってわずか3日後のことで、ソ連には戦車が不足していましたが、T-50は生産が進まず、代わりのT-30がモスクワの第37工場で作られていました。

ソ連のアストロフ技師により新しい戦車が大至急設計されますが、わずか2週間で完成しました。

1941年7月、T-40の車体を利用した20mm砲を搭載したT-60が完成し、スターリン自らがこの車輌の最終テストに参加したことで、10000輌の生産の命令を出しました。

生産はエカテリンブルクに疎開したGAZ工場、スターリングラード、ハリコフ、キエフなどで行われ、1941年9月から1943年2月までに5417輌が作られました。

1941年9月に初めて戦闘に参加し、モスクワの戦いから1944年のレニングラードの戦いまで多くの戦場で使用されました。

東部戦線ではドイツ軍やイタリア軍などに簡単に撃破され、「二人兄弟の墓」(二人用だったため)という異名まで付けられました。

マリュトカ戦車と呼ばれる子供たちの寄付により購入したT-60の女性操縦士エカテリーナ・ペチュク軍曹はロシアでは有名です。

T-60は1942年の終盤からT-70、T-34に替わっていき、訓練用や警備用に使用されていきました。

T-60は1941年生産型(M1941)は最大装甲が25mm、それ以外の1942年生産型は最大装甲が35mmで、ほとんどのT-60がM1942型です。


1941年生産型

1942年以降生産型

主砲は20mm TNSh機関砲

これは航空機に搭載された20mm ShVAK機関砲を戦車砲として改造したものです。

スピード15(42km/h)

最大装甲はM1941が25mm、M1942が35mm

ドイツ軍は鹵獲したT-60を兵器としては使用せず、主に対戦車砲の牽引車輌として使用しました。


ドイツ軍に鹵獲されたT-60

BM-8-24


ソ連のBM-8-24多連装ロケット自走砲

T-60軽戦車の砲塔を取り外し、多連装のロケット弾を装備させた車輌です。

ロケット弾はM-8無誘導の82mm口径弾で通称カチューシャと呼ばれています。

ソ連ではM-8(RS-82)の他にM-13(RS-132)という132mm口径のロケット弾もあります。

T-60の車体に上下12基の計24発のロケットを装備し、これらは一斉射撃も時間差射撃も可能でした。

この多連装ロケットランチャーは、T-60以外にもT-40やGAZトラック、アメリカ軍のトラック、馬車、装甲船などにも用いられました。

T-60を改造した車輌に限っては、1941年11月ごろから生産が始まり、1942年6月までに248輌が作られました。

T-40を改造した車輌はわずか12輌のみとなっています。


ドイツ軍では発射音がオルガンの音に似ていたことからカチューシャのことをスターリンのオルガンと呼ばれました。

ドイツ軍は鹵獲した車輌から多連装のロケットランチャーの車輌を開発しました。

これはフランス製のソミュアMCGというハーフトラックに多連装のロケットランチャーを搭載させたもので、8cm Raketen-Vielfachwerferと呼ばれ、300輌ほどが作られました。


T-70 M1942 / T-70 M1943


ソ連のT-70軽戦車

T-60軽戦車の強化タイプとして作られました。

1941年9月に開発が行われ、1942年3月に採用、1942年4月から1943年10月まで8231輌が作られました。

そのうちの6800輌はGAZ(ゴーリキー)工場で作られています。

武器と機械の強化を課題に設計されており、主砲は45mm砲を搭載、車体を大きくし装甲を強化したためエンジンを2基搭載させました。

多くの部隊に配備され、歩兵支援、偵察などで使用されましたが、ドイツ軍の3号、4号戦車、3突とは互角に戦うことができず、1943年7月のクルスクの戦いでは、半数以上の損害を出しました。

1943年10月に生産が停止し1944年にはほぼ姿を消しましたが、1945年5月には数輌がまだ配備されていました。

1942年型(前期型)と1943年型(後期型)があり、1943年型(後期型)は一般的にはT-70Mと呼ばれています。


前期型


前期型

主砲は45mm obr.32/38砲

スピード15(42km/h)

最大装甲45mm


後期型

若干、装甲が強化されました。

ドイツ軍は鹵獲した車輌をPzKw T70 743(r)として使用しました。

またよく戦記の逸話に出てくるドイツ軍が撃破したT34の戦果を見間違えていたのではという話の戦車はこのT-70のことだろうと思われます。



T-80


ソ連のT-80軽戦車

T-70の改良型

T-70は開発されたときから砲塔が弱点という指摘を受けていました。

1942年7月、この弱点を改善するための会議が行われ、一人用砲塔から二人用砲塔が採用されました。

試作車輌は出来たもののテスト結果がよくなく、また1943年に工場が爆撃を受けて部品が消失、1943年9月までに76輌が作られましたが、その後SU-76Mが生産されるようになり生産は終了しました。

このT-80を最後に軽戦車から自走砲へと移っていきました。

数輌が部隊に配備されましたが、ほとんどの車輌は訓練用に使用されました。


主砲は45mm obr.32/38

乗員が2名から3名

最大装甲45mm


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