Steel Panthers World War 2 JAPANESE HQ
スペインとスペイン共和政について
Renault M 17m / M 17c
CL de Unf M17c / M17m
T-26 33 / T-26 33aa
CL de Inf T-26B
CL T-26(E)
CTV CV-33 / CTV CV-35 / CTV CV-35LF
CV-33 / CV-35
CCI Tipo 1937
PzKpfwⅠA / PzKpfwⅠB
KI PzBef Wg
PzKfpw 1/20
PzKfpwⅠFlama
Rapido BT-5 M33 / CM Rapido BT-5
Artilleria M 16
Trubia M26 A
Trubia M34 A4
Trubia TSH
Landesa M 36
Trubia Naval
Trubia M36
IGC Sadurni
Barbastro M 37
Verdela Ⅰ
Verdeja SPG
ゲームに登場する2つのスペインについて簡単にお話します。
1874年の王政復古によりスペイン王国になりました。
1931年4月、無血革命によりスペイン第二共和政が誕生します。
これがゲームで登場する一つ目のスペインの一つです。
スペイン共和政(共和国)のスペインは左派で、社会労働党などの暴力革命志向で、多くの略奪や破壊、暴力を行いました。
そして次第にエスカレートし、暗殺の報復で暗殺するという事態にまで発展していきました。
これが引き金となり、次第に反乱ムードが高まります。
そこで登場したのが反乱軍である右派勢力です。
ゲームでもスペイン内戦が始まる1936年7月から2つ目のスペインが登場します。
この反乱軍を率いたのがフランシスコ・フランコ総司令官
後のスペイン初代総統になった人物で、亡くなる1975年まで任期を全うしました。
フランコは右派のファシズム政権であったため、ドイツとイタリアから大々的な支援を受けました。
逆に左派勢力の方はソ連とメキシコから乏しい援助しか受けることができませんでした。
内戦は当初スペインの国土の9割を確保していた人民戦線軍(共和国)でしたが、反乱軍による攻撃で次々と都市が陥落していきました。
戦車・装甲車や爆撃機・戦闘機などのソ連の兵器は、反乱軍を性能では圧倒していましたが、人民戦線側は次第に内部分裂いていきます。
1938年ごろにソ連からNKVDが送り込まれ、スペイン共産党の内部分子を次々に処刑していきました。
1938年7月、天王山の戦いと言われるエブロ川の戦いが行われ、反乱側が勝利、これにより首都バルセロナが陥落し、人民戦線の首相は亡命しました。
そしてスペインは現在のスペインとなります。
スペイン内戦の勢力図は、
共和国(人民戦線)(左派)
スペイン共和国
国際旅団
ソ連
メキシコ
反乱軍(右派)
右派勢力
イタリア
ドイツ
ポルトガル
アイルランド
WW2ではスペインは枢軸寄りであり、ソ連と戦うドイツために義勇兵「青師団」を東部戦線に派遣しました。
スペイン内戦は、WW2の前哨戦とも言える戦争となりました。
ドイツやソ連は開発した兵器を援助し、兵器の性能や戦車の戦い方などの知識を得ました。
登場年代は、
「スペイン共和政」 1930年1月~1939年4月
「スペイン」 1936年7月~1946年12月
スペインは1921年にフランスから12輌のFT-17を購入しました。
8輌が機関銃装備の車輌、2輌が37mm砲装備車輌、2輌がルノーTSF(無線車輌)でした。
その後、戦車部隊を設立、2個中隊で編成されルノー戦車6輌が追加され、リーフ戦争に投入されましたが、ほとんど活躍できずに終わっています。
リーフ戦争(1920-1926)はモロッコのリーフ共和国との戦争です。
アブド・アルカリーム率いるわずか3000人のモロッコの部隊に対しスペインは傭兵やスペイン外人部隊で戦いましたが完璧に翻弄され劣勢、しかしフランス軍が参戦したため戦局は変わり、その後アブド・アルカリームは降伏。
1936年から1937年にかけてスペインはポーランドからFT-17を16輌購入、スペイン内戦の「サンタンデールの戦い」や「マドリッド防衛戦」で使用されましたが、多数を損失しています。
スペイン内戦では両軍でFT戦車が使われており、何輌を購入したか正確な数はよくわかりません。
スペインに登場する機関銃装備の車輌は、機関銃がホッチキスの7mmに換装されています。
これは8mmホッチキスMle1914機関銃をスペインではライセンス生産しており、7mmモーゼル弾を使用していたためです。
購入年月は史実とほぼ合っています。
スペイン共和国では
Renault M 17m が1930年1月~1939年3月まで
Renault M 17c が1934年6月~1939年3月まで
スペインでは
CL de Inf M17m が1936年7月~1937年6月まで
CL de Inf M17c が1936年7月~1942年9月まで
ソ連のT-26軽戦車
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ソ連はスペイン共和国政府からの要請で武器と兵器を多く提供しました。
T-26軽戦車は最終的に281輌を購入しています。
(296輌という資料もあります)
1936年に最初のT-26が50輌到着し、ソ連のクリボシェイン大佐がスペイン志願兵を80名を募り、スペインで最初のソ連戦車部隊の指揮官となりました。
クリボシェイン大佐は、1943年のクルスクの戦いで第3機械化軍団を率い、プロホロフカでドイツ軍のホト将軍と戦い、1945年のゼーロウでの戦いで勝利をし、ソ連邦英雄の勲章を授与された人です。
クリボシェインが帰国後、スペイン人による戦車部隊が創設され、1937年秋からは完全にスペイン人による部隊となりました。
ドイツ・イタリアが支援した反乱軍は、ドイツの1号戦車やイタリアのCV-33豆戦車が主力でした。
地上戦の兵器ではT-26擁する人民戦線軍が有利でしたが、T-26の弱点である装甲の薄さを対戦車砲で攻撃され、40%ほどの戦車を失ったとされています。
T-26に対して有効的だった対戦車砲は、ドイツ軍の3.7cmPak 35/36が400m以下、イタリア軍のCannone de 47/32は600m以下、対戦車砲ではありませんがCannone 65/17 も効果があったそうです。
共和国(人民戦線)に登場するT-26は、M1933製と思われます。
主砲はソ連製の45mm砲、その他のデータもソ連製と同じです。
M33というのは「M1933」であり、M33aaというのは「M1937」だと思います。
スペインの「T-26 M33aa」は第3火器に機銃が搭載されていますが、これも対空機銃のため砲塔上部の機銃と見ていいと思います。
そして反乱軍側では鹵獲した車輌(Captured Tank)として登場します。
ユニット名の頭にCLとあるのは、Condor Legion(コンドル軍団)のことで、ドイツが組織したドイツ遠征軍として反乱軍を支援した部隊のことです。
性能は全く同じ。
購入は[Captured Tank]で購入できます。
また内戦が終了した後もT-26はスペイン軍により使用されました。
主砲の45mm L44 M.39というのはソ連製の45mm砲と同じ性能のため、名前が変わっただけだと思います。
イタリアのCV-33、CV-35豆戦車
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イタリアはスペインで起こったスペイン内戦における反乱軍側(ファシスト側)を支援しました。
これはムッソリーニが地中海を征服したかったためであり、イタリア王立海軍をはじめとした航空機、戦車、砲、そしてCTV(Corpo Truppe Volontarie)というイタリア義勇遠征軍を派遣しました。
ユニットの頭にCTVとあるのは、イタリアの義勇遠征軍のことです。
スペインには約150輌のCV-33、CV-35が送られました。
1937年3月12日に行われたグアダラハラの戦いで、ソ連のT-26、BT-5を主力としたスペイン共和国の部隊とL3-33、L3-35を主力としたイタリア軍との戦闘が行われ、イタリア軍はT-26との戦闘で多くの車輌を失い共和国側に何輌かが鹵獲されました。
共和政スペインには鹵獲された車輌も登場します。
グアダラハラの戦いで8輌のCV-33(35)が鹵獲されており、またその他の戦闘でも損傷した車輌を修理して使用しました。
鹵獲車輌としてのみ登場します。
スペインのC.C.I Tipo 1937戦車
正式には、Carro de Combata Infanteria tipoの略で、意味は歩兵戦車。
スペイン内戦が行われている1937年6月、反乱軍はスペイン北部のセスタオという地を占拠しました。
ここは元はスペイン海軍工廠があり、共和党スペイン軍の戦車の生産と修理が行われていました。
ここで試作車輌で作られたのが、このCCI Tipo 1937という戦車。
足回り、履帯などはイタリアのCV-35ですが、車体上部と砲塔は新しく作られたものとなっています。
主砲はイタリアのブレダM35 20mm砲、副武装にブレダM38 機銃2挺。
反乱軍にとっては、T-26戦車に対抗できると期待されましたが、完成した車輌は7.92mm機銃でも貫通してしまう装甲であることが判明し、生産には至りませんでした。
ドイツの1号戦車
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スペイン内戦でスペイン反乱軍を支援するドイツは、すぐにコンドル軍団を通じスペインに戦車・対戦車砲・砲・修理用の機材を送りました。
1号戦車はA型が97輌、B型が25輌です。
1937年に順次到着し、1938年には全て整いました。
到着した戦車はイタリアのCTVとは異なり、ドイツ軍の監督役のフォン・トーマ少佐の下、戦車兵はスペイン人に任せることにし訓練をしました。
ドイツのスペインへの派兵は単に援助というだけでなく、自国の兵器の見極めやテストを兼ねていたことと、後にドイツが用いた電撃戦の戦術を試す機会となりました。
フォン・トーマ少佐は1号戦車を装備したスペインの第88戦車大隊に対し、電撃戦の基礎を教えました。
そしてソ連の援助を受けたスペイン共和政のT-26、BA-10との初めての戦車戦が行われましたが 1号戦車の武器ではソ連の戦車には全く歯が立ちませんでした。
3.7cmPak36対戦車砲でなんとか撃破できましたが、トーマ少佐はソ連のT-26の鹵獲を命じ、これに懸賞金をかけました。
そして鹵獲したT-26を自軍の兵器として使用しました。
CL(コンドル軍団)として登場するA型とB型です。
性能は同じです。
こちらはコンドル軍団ではなく、スペイン人による1号戦車A型
またスペイン共和政に鹵獲されてしまった車輌もあります。
どれくらいの数があったのかは不明です。
Captured Tankとして登場します。
Negrilloというのは、ドイツから輸送されたときの1号戦車の車体の色はドイツ軍の公式の色だったのですが、スペインでは塗り直され灰色になったそうで、そこから戦車兵によってつけられたあだ名が「Negrillo」(アフリカの黒人)です。
ドイツの1号指揮戦車
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スペインは4輌の1号指揮戦車を購入しました。
性能はドイツ軍のものと同じです。
ドイツ軍の1号戦車ブレダ
正式な名称はありません。
スペイン反乱軍の主力戦車だった1号戦車やイタリアのCV-33の武器では、ソ連製のT-26やBA-6に対抗することができなかったため、急きょ1号戦車を改造し、砲塔にブレダ製の20mmM35機関砲を搭載させました。
1937年9月に4輌が改造されテストが行われました。
1938年3月7日から行われたアラゴンの攻撃で4輌は使用されました。
アラゴンの戦いの後も3輌は生き延びましたが、1939年1月に最後の1輌も失いました。
わずか4輌しか作られなかった理由は、共和政スペインからT-26を鹵獲することができるようになったためというのが驚きですww
一体どれくらいのT-26をぶんどったのでしょうか。
たった4輌しかなかったにもかかわらず、映っている写真が多いのもまた驚きです。
この写真は個人撮影のものがほとんどですが、写真のおかげで後世にも伝えられました。
ゲームでは共和政スペインに鹵獲された車輌も登場します。
実際には鹵獲された記録はなく4輌とも破壊されています。
ドイツの1号戦車を改造した火炎放射戦車
スペインで1号戦車のA型とB型を1輌づつ改造して、砲身に火炎放射器を搭載させた車輌が作られました。
2輌が作られましたが、詳しい記録・資料は残っておらず、実戦で使用されたのかは不明です。
テストの結果がよくなかったため、破棄された可能性もあります。
↑の画像の火炎放射器の砲身が長いのがA型で、↓の画像の短いのがB型だそうです。
火炎放射の射程は約20m
動画を張っておきます→こちら
ソ連のBT-5快速戦車
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ソ連はスペイン共和国政府に50輌のBT-5を送りました。
BT-5の初めての戦場はスペインでした。
1937年8月24日、BT-5はサラゴサを占拠する作戦にT-26と共に参加しました。
しかし当時、戦車の戦術が確立していなかったため、反乱軍の対戦車砲や野砲による攻撃で多くの車輌を失いました。
反乱軍のCV-33や1号戦車には互角に戦えましたが、戦術的に失敗したことで多くの車輌が失われています。
Rapidoはスペイン語で快速の意味
こちらは反乱軍に鹵獲されたBT-5
若干装甲値は弱くなっていますが、むしろこちらが正しいw
どれくらい鹵獲したのかは不明ですが、スペイン内戦終結後、残ったBT-5は全て反乱軍が鹵獲しました。
1939年5月からは、この車輌が登場します。
フランスのシュナイダーCA1
1915年のWW1の時に作られたフランスの戦車。
400輌が作られ、戦後になり、1921年にスペインに6輌が売却されました。
スペインではシュナイダーM16と名付けられ、1923年のモロッコとのリーフ戦争に参加しました。
1929年までモロッコに配備されましたが、4輌がマドリードに移送され、スペイン内戦では初期の戦いに、3輌が戦闘に参加、マドリードのマウンテン・バラックスの戦いやアサルカサルの包囲戦で使用されました。
スペインでは砲兵部隊に配備されていたため、ゲームでもArtilleria(砲)という名前で登場します。
主砲は車体にあるシュナイダー製の75mm榴弾砲
副武装は7mmホチキス機銃
ゲーム内ではフランスには登場しません。
スペインのトルビア軽戦車
スペインが最初に購入した戦車は、フランスのルノーFT-17が12輌、シュナイダーCA1が6輌でした。
これらの戦車はリーフ戦争で使用され、スペインは装甲車輌の有効性を認識し、国産の戦車の開発が行われました。
開発を行ったのは、カルロス・ルイス・デ・トレロ大尉で、アストゥリアスのトルビア砲兵工場で最初の試作車輌が1925年に完成しました。
ルノーFT-17を元にしており、外形はルノー戦車によく似ていますが、円形の砲塔に機銃が2挺装備できました。
この2挺は1挺が過熱して動かなくなったときのものでした。
試作車輌のため1輌のみが作られ、この1輌はまもなく解体されています。
ゲームではTrubia M26 Aとして登場しますが、この車輌には名称はありませんでした。
主武器は機銃のみ
スピード8(19km/h)
最大装甲16mm
スペインのトルビアA4 軽戦車
試作車輌として完成したトルビアM26の成功により、スペインでは新たな戦車開発の予算が組まれることになり、スペインの技術者はヨーロッパを視察し、技術革新を行いました。
車体は大きくなり、サスペンションとエンジンが改良されました。
1926年に最初の試作車輌の1輌が完成、しかしその後、スペインでは正常不安定と資金不足になったため、開発計画は中止となり、1931年に1輌、1934年に2輌と計4輌が完成しました。
3輌は歩兵部隊により試験が行われました。
スペイン内戦が始まると、3輌は反乱軍(国民党)により接収され、使用されたと伝えられていますが、故障が相次いだため、破壊されています。
名称ですが、スペインではTrubia Serie A(Aシリーズ)、あるいは4輌作られたのでTrubia A4と呼ばれます。
武器は機銃
スピード10(30km/h)
最大装甲20mm
国民党軍にも登場します。
ゲームにはもう一つの別の車輌が登場します。
Trubia TSHというもので、これはFO車輌となっています。
砲塔機銃を取り外し、無線器を搭載した指揮戦車の可能性が高いですが、詳細は不明です。
完成したTrubia A4の4輌のうち、1輌だけは改造のためトルビアの工場にあり、これを労働者が略奪し、共和国軍が修理し使用したとありますので、これのことかもしれません。
スペインのランデサ軽戦車
こちらはヴィクトール・ランデサ・ドメネクとロヘリオ・アレセスにより開発された車輌。
スペイン北部のバスク地方にある工場で、農業用トラクターを軍事用車輌にする開発を行い、1932年には砲を牽引するためのトラクターが完成しました。
1934年、このトラクターに15mmの装甲板を取り付けられ、1936年ごろまでに2~4輌が作られたと言われています。
スペイン内戦では、どこでどう使用されたのかは不明ですが、1936年に国民党(反乱軍)に鹵獲された写真が数枚あり、国民党軍はこれらを使用したそうです。
映っている写真が数枚しか現存してないため、貴重な写真です。
スペインのトルビア・ナバル軽戦車
トルビアA4戦車が、国民党軍(反乱軍)により接収されましたが、奇跡的に設計図だけは工場から持ち出すことができました。
この設計図は共和党軍に渡り、スペイン海軍造船所(SCEN)ですぐに戦車が生産されました。
それがトルビア・ナバルと呼ばれる軽戦車で、Trubia Naval modelo 1936とも言います。
上記のランデサ軽戦車の車体を利用し、武器は機銃のみ、車内が非常に狭く暑かったため、乗員は30分しかいられなかったそうです。
1936年から1937年にかけて、16輌は完成しましたが、工場が占領されたとき、未完成の車輌があり、詳細は不明です。
この車輌も国民党軍により、9輌が鹵獲されました。
画像を見ると機銃ではなく、口径の大きい砲のように見えますが、これはイギリス製のルイス機関銃なので、このように見えます。
こちらは国民党軍が鹵獲した車輌
国民党軍が戦場で使用したのかは不明ですが、写真から牽引車輌あるいは運搬車輛に運用したと言われています。
スペインのIGC サドゥラニ軽戦車
この車輌に関しては、あまり詳細は分かっていません。
カタルーニャ戦争評議会(IGC)は、サドゥラニ・デ・ノヤにある装軌式トラクターやトラックの製造をしていた会社に戦車の製造を依頼し、作られました。
砲牽引車、兵員輸送車、戦車と作られ、戦車には2つのバージョンがあったそうですが、数輌が作られただけでプロジェクトは中止となりました。
1937年夏のマドリードでの軍事パレードで映っている写真がありますが、それ以降は詳細は不明です。
ゲームに登場する車輌は、戦車としてだけでなく、砲牽引、兵員輸送も全てできる車輌となっていますが、これはゲームでの車輌のことでしょう。
スペインのバルバストロ軽戦車
共和党軍というより、民間の技術者が作った車輌で、写真が2枚しかなく、詳細はほとんど知られていません。
履帯は農業用トラクター、エンジンはフランスで購入したアメリカ製のトラック、薄い装甲板を取り付けました。
それでも砲塔もついており、機銃を撃つことができました。
この車輌は鉄道で輸送された後、どうなったのかは全く消息が不明です。
その後、2輌目、3輌目が作られたとありますが、完成したのか、そしてどうなったのかは現在も分かっていません。
スペインのベルデハ軽戦車
スペインほ砲兵指揮官だったフェリックス・ベルデハ大尉により開発が進められました。
1938年当時、スペインは共和党軍の主力はソ連製のT-26、国民党(反乱軍)の主力はドイツ製の1号戦車でしたが、ベルデハ大尉は、様々なスクラップとなった戦車を倉庫に集め、新しい戦車の設計を行いました。
ベルデハ1の試作車輌は完成したものの、スペイン内戦後の資金不足で、1941年には計画が中止となりました。
また改良型のベルデハ2の開発も1942年から行われ、1944年に試作車輌が完成しましたが、スペインはドイツから4号戦車や3号突撃砲を導入したため、生産には至りませんでした。
試作車輌として登場
主砲は45mm砲
これはソ連製の45mm対戦車砲を改造したもの
スピード15(44km/h)
最大装甲25mm
スペインのベルデハ自走砲
スペインでは1940年代後半から1950年代前半にかけて、既存の車輌を改造し、自走砲にする計画がいくつか行われました。
ほとんどが途中で頓挫しましたが、1945年にベルデハ1の車体を利用し、75mm砲を搭載させた自走砲が作られました。
しかし生産はされず、1973年まで試験場に放置されたいたと言われます。