Steel Panthers World War 2 JAPANESE HQ
> ユニットガイド > 兵器1 > 2 > 3 > 4 > 5 > 6
3.7cm PaK35/36 (ドイツ)
Stlgr 41 PaK35 (ドイツ)
37mm AT-Gun (ルーマニア)
37mm Panceltoro (ハンガリー)
37mm M40 AT-Gun (フィンランド)
37L40 AT-Gun (中国)
2 Pdr AT-Gun (イギリス)(フランス)(ポーランド)(カナダ)(インド)(ANZAC)(ベルギー)
4cm PaK 192 (e) (ドイツ)
6 Pdr AT-Gun (イギリス)(カナダ)(ANZAC)(ポーランド)(インド)(オランダ)
57mm AT-Gun (アメリカ)(海兵隊)
3 Inch AT-Gun (アメリカ)(フランス)
37mm対戦車砲の最後になります。
ドイツ軍は第一次大戦後の1928年、ラインメタル社がソ連で秘密裏に「3.7cm TaK28 L45」という対戦車砲を開発しました。
これはゲームにも「3.7cm TaK 30」として登場します。
その後、1934年に改良型として作られたのが、「3.7cm PaK35/36」です。
この砲の最初の登場は、1936年に起こったスペイン内戦で、このときにソ連製の戦車「BT-5」「T-26」などを撃破し活躍を見せました。
さて、その後は皆さまもよくご存じのことでしょう。
ドイツ軍の3号戦車の主力武器として装備されましたが、1940年のフランス侵攻のときに、フランスの「Char B1」「ソミュアS35」、イギリスの「マチルダI/II」などの戦車には全く歯が立たたず、「ドアノッカー」の汚名を着せられました。
マチルダ戦車に至っては、14発も被弾しながらも貫通弾がなかった車輌があったそうです。
その後、「5cm PaK38」そして「7.5cm PaK40」が開発、配備される1942年までは戦場では使用されました。
ゲームでもT34やKV戦車を相手にしてしてみると、よく分かりますが、近距離でも運がなければ撃破できませんw
1943年、ドイツ軍はHEAT弾「Stielgranate 41」を開発、そのおかげでドアノッカーであった「3.7cm PaK35/36」も汚名を挽回します。
画像のようにライフルグレネードのように砲身の先にHEAT弾を差し込んで発射するというものです。
この「HEAT弾」は「成形炸薬弾」なので、命中すれば距離に関係なく180mmの厚さの装甲を貫通できますが、命中させるのが難しかったと言われています。
そのため有効射程距離は300mとされていましたが、実際は100m程度でした。
要するに「パンツァーファースト100」のような感じです。
ゲームではこのHEAT弾「Stielgranate 41」を積載しているユニットは「Stlgr 41PaK35」というユニットとして登場、砲弾はHEAT弾の12発のみです。
3.7cm PaK35/36の貫通力
SABOT弾(ドイツ軍で言うAPCR弾)は積載しているユニットとしてないユニットがあります。
このAPCR弾は、新型徹甲弾PzGr40のことです。
Stlgr 41 PaK35の貫通力
案の定、射程50m(1へクス)です(涙)
砲は1936年〜1942年までに15000門が生産されました。
購入は1934年6月〜1944年12月
ただしSABOT(APCR)弾を積載している砲は、
1940年6月〜1942年12月
「Stlgr 41 PaK35」は、1942年6月〜1946年12月
ドイツ軍の「3.7cm PaK35/36」は枢軸国にも供給されました。
ルーマニアには、スターリングラードの戦いに参加していたルーマニア第3、4軍に供給されました。
1942年11月19日のソ連軍は「ウラヌス作戦」でスターリングラード周辺にいたルーマニア軍を攻撃します。
兵力不足と士気低下によるルーマニア軍は最初こそ防戦しますが、その後、戦線崩壊し、多くの兵士が捕虜になりました。
(画像はルーマニア軍)
購入は1941年4月〜1945年12月
ハンガリーにも供給されました。
(画像はハンガリー軍のPaK35/36)
数は不明です。
1936年1月〜1943年6月
フィンランド軍は1940年から1941年にかけて約200門を購入しています。
これらは冬戦争でも使用され、終戦までに140門が生き残りました。
フィンランドでは「37mm PaK40」となっていますが、これはフィンランドがドイツから購入した際、若干の改良がされているものです。
そしてフィンランド軍は成形炸薬弾「Stlgr 41」も5000発購入しています。
(このユニットはゲームには登場しません)
1940年11月〜1944年12月
「3.7cm PaK35/36」は中国にもありました。
中国とドイツの関係は日本人にはあまり馴染みがありませんが、1910年から1940年代にかけての「中独合作」政策により、中国の産業と軍隊の近代化はドイツの影響を大きく受けました。
ここでは詳しい話は省きますが、軍事に関してはヒトラーが中国に多額の借款を与え、その金で中国はドイツから武器を購入しています。
それだけでなく、中国国内に軍事研究所兵器工場を設立し、ここで砲や装甲車、機関銃なども作られました。
なので対戦車砲もありました。
と言うか、何があっても不思議ではないのが中国で、ドイツのみならず、いろんな国の兵器や車輌があったりしますw
画像を見るとお分かりのように、東洋人がかぶると決して似合わないドイツ式のヘルメットをかぶった中国兵が「PaK35」を装備しています。
このようなドイツの武器を装備した中国軍と日本軍とで1938年3月、「台児荘の戦い」が行われました。
この戦いは「台児荘」という中国の古い城に日本軍が包囲され最後は撤退し中国軍の勝利となったのですが、このときに中国軍の対戦車砲などで日本軍の戦車、装甲車30輌を撃破したと言われています。
日本軍は中国軍からこの砲を大量に鹵獲し、「ラ式37mm対戦車砲」として使用しています。
(ゲームには「37mm Type97 ATG」として登場します)
ゲームに中国に登場する「37L40 AT-Gun」ですが、この砲は「37mm PaK30 L40」と記載されいます。
「PaK30」って?
しかも購入年代が1930年1月からになっています。
「う〜む・・」
1930年から購入可能となると、「3.7cm TaK30」かと思いましたが、中国国内には「3.7cm PaK35」があったということから、これは「3.7cm PaK35/36」だと結論づけました。
購入年代は明らかにおかしい気がしますw
(SPWW2の日本や中国のユニットデータはそれほど正確ではありません)
1930年1月〜1942年12月まで
イギリスで開発された「オードナンス QF 2ポンド砲」
「オードナンス」(Ordnance)は、「砲」
「QF」は、「Quick Firing」なので直訳すると、「2ポンド速射砲」
速射砲というと、日本軍も「九四式37mm速射砲」という呼び名をしていた。
イギリスだけは伝統的に砲の口径ではなく、砲弾の重量で呼ぶため、「2ポンド」
これは口径が40mmであり、当時、全盛だった37mmよりも威力はあった。
1935年にヴィッカーズ社とウールウイッチ・アーセナル社が開発を進め、1936年から生産に入りました。
約12000門が生産されました。
1936年から部隊配備され、大戦初期の戦場で活躍しました。
しかしドイツ軍のパンテルやティーガーの前では完全に「ドアノッカー」と化していきましたが、太平洋戦線では日本軍の戦車に対しては有効でした。
1943年ごろから、砲身の先に「リトルジョン・アダプター」というものを装着させ、威力のあるタングステン弾を撃てるようにしました。
このタングステン弾(APSV)はゲームでは「SABOT」弾としてインド軍とカナダ軍に登場します。
また、多くの戦車や装甲車にも搭載されました。
貫通力ですが、上が普通のAP弾、下がSABOT弾です。
ちょっと分かりにくいですが、上の画像はAP弾のみを参照、下の画像はSABOT弾のみを参照してください。
イギリスでは1935年1月〜1946年12月
フランスでは1940年4月〜1943年4月
ポーランドでは1940年7月〜1942年12月
カナダでは1942年9月〜1943年5月(SABOT弾のみ)
インドでは1938年1月〜1945年12月(1943年からSABOT弾装備)
ANZACでは1936年1月〜1942年5月
ベルギーでは1942年1月〜1942年12月
イギリス軍は1940年、ダンケルクの戦いで史上最大の撤退作戦を行いましたが、その際に、車輌、重火器などは全て放棄しましたが、ドイツ軍はそれらの車輌、火砲を鹵獲し使用しています。
2ポンド砲は「4cm PaK 192 (e)」という名称で使用しました。
そしてフランス侵攻の前のベルギーの戦いでも、ベルギー軍が降伏したことで、ベルギー軍が使用していた2ポンド砲を使用しています。
こちらは、「4cm PaK 154(b)」と呼ばれています。
(b)はベルギーのb
ゲームには「4cm PaK 192 (e)」が登場します。
1940年7月〜1944年9月
続いて6ポンド砲。
「オードナンス QF 6ポンド砲」
開発はウールウイッチ・アーセナル社で1938年に始まりました。
砲が完成したのは1940年ですが、イギリスは2ポンド砲の生産を継続することになってたため生産は1941年11月からと遅れました。
部隊配備は1942年5月から。
6ポンド砲はアメリカ軍が「M1 57mm砲」としてライセンス生産を行いました。
1942年5月に行われた「ガザラの戦い」で初めて使用されました。
6ポンド砲の大活躍と言えば、「ヴィクター・ブラー・ターナー中佐」でしょう。
第二次エル・アラメインでの戦場で、ターナー中佐はライフル大隊を指揮していました。
1942年10月27日、部隊は敵陣の中で孤立してしまいました。
その夜、ドイツ軍が何度も攻撃を仕掛けてきました。
中佐は残された6ポンド砲でドイツ・イタリア軍の戦車を攻撃、20以上の戦車を撃破し、ドイツ軍の攻撃を食い止めました。
この戦いで中佐自身も頭を負傷しましたが、それでも勇猛に献身的に戦ったことで、イギリス軍人では最も栄誉ある「ヴィクトリアクロス(十字章)」を授与されました。
(第2次大戦では12名のみが授与されています)
パンテルやティーゲルの装甲を撃ち抜けない6ポンド砲の生産は1943年1月に終了しますが、1944年にイギリス軍は「APDS弾」(ゲームでいうSABOT弾)を開発、6ポンド砲にも供給されることにより、戦後の朝鮮戦争や第二次中東戦争まで使用されました。
ゲームでもSABOT弾積載の砲は登場します。
また多くの戦車の主砲に搭載されました。
イギリスでは1942年5月〜1944年3月
(SABOT弾積載は1944年4月〜1946年12月)
カナダでは1944年4月〜1946年12月)
ANZACでは、1942年5月〜1944年3月
(SABOT弾積載は1944年4月〜1946年12月)
ポーランドでは1943年1月〜1944年3月
(SABOT弾積載は1944年4月〜1944年7月)
インドでは1942年5月〜1944年12月
(SABOT弾積載は1945年1月〜1946年12月)
オランダでは1944年4月〜1946年12月
(SABOT弾積載)
アメリカでは「M3 37mm対戦車砲」に代わる砲として、イギリスの6ポンド砲を自国規格に改修してライセンス生産を行い、「M1 57mm対戦車砲」としました。
アメリカ軍では1944年半ばまで対戦車用火器として使用されましたが、米軍の場合、敵戦車に対しては駆逐戦車が要請に応じて対応する方針であったのと、1944年後半になると「M1 バズーカ」が大量に配備されたことで、対戦車砲は人気がありませんでしたw
(アメリカ人の気質と対戦車砲は合ってなかったとも言われます)
アメリカ軍では1943年5月〜1946年12月
(SABO弾積載は1944年6月から)
海兵隊では1945年1月〜1946年12月
また「M1 57mm対戦車砲」を搭載させた自走砲車輌「T48 GMC」が開発され、ソ連に650輌がレンドリースされました。
この「T48 GMC」はソ連では「SU-57」と名付けられました。
アメリカ軍が開発した「M3 37mm対戦車砲」の後継として開発した対戦車砲。
正式には「M5 3 Inch Gun」
3インチとあるが、口径は76.2mm
「3 inch M1918」という対空砲(高射砲)を改造して作ったものだが、この「3 inch M1918」対空砲は、第1次大戦でのアメリカ陸軍の初めての対空砲で、沿岸砲兵部隊により固定砲として使用されました。
1940年、陸軍は新型対戦車砲の開発が始まり、「M1918」対空砲の砲身と、「M2 105mm榴弾砲」の閉鎖機、中退複座機、砲架を組み合わせることで完成しました。
1941年に完成、1942年から1944年までに約2500門が生産されました。
1943年にイタリア戦線で配備され、1944年8月のドイツ軍の反撃「リュティヒ作戦」の「モルタンの戦い」では、ドイツ軍の戦車14輌を撃破する活躍を見せました。
しかし砲自体の性能はよかったものの、米軍は常に機動力を必要としていたため、重量の重い、特に牽引に手間がかかる対戦車砲はあまり評価されませんでした。
(日本軍から見たらなんと贅沢なことでしょう)
1945年1月、アメリカ軍は砲牽引部隊を全て自走砲に改めることとし、その後、終戦までに少しづつ改編されていきました。
この砲にはAPDS弾は開発されませんでしたが、ゲームにはSABOT弾積載のユニットが登場します。
なお、「3 inch M1918」を更に改良した砲「M7 3 Inch Gun」は、「M10 駆逐戦車」に搭載されています。
アメリカ陸軍では1944年1月〜1946年12月
海兵隊では1946年3月〜1946年12月
フランス軍では1944年6月〜1946年12月
> 兵器8