Steel Panthers World War 2   JAPANESE  HQ

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戦車・装甲車 19

BA-10 (ソ連)(フィンランド)(中国) 
PsW 203(r) (ドイツ) 
BA-64 (ソ連)(チェコスロバキア)(ポーランド)(ユーゴスラビア)
BA-64 AOP (ソ連)(ポーランド)(ユーゴスラビア) 

Lansvrk 40 ItK (フィンランド)
40M Nimrod (ハンガリー)
43M Lehel A (ハンガリー) 

CKD LT vz.34 (チェコスロバキア)(スロバキア) 
CKD LT vz.35 (チェコスロバキア)(スロバキア) 
CKD R-2 (ルーマニア) 
Skoda Pz.35(t) / Skoda T-11 (ブルガリア)
PzKw 35(t) (ドイツ) 
CKD LT vz.38 (チェコスロバキア)(スロバキア)

BA-10 (ソ連)(フィンランド)(中国)

BA-10

いよいよBA-10です。

BA -10は、BA-6の改良型として1938年に開発されました。

車体はBA-6と同じの「GAZ- AAA」六輪トラックですが、このBA-10は装甲が傾斜装甲になっているところが特徴。

そのためゲームでの装甲値が2(!)になっています。

砲塔には相変わらずの45mm戦車砲、そして機銃が砲塔と車体に1丁づつ。

ゲームには登場しませんが、BA-10Mという改良型も生産されました。

こちらは無線と搭載させたり、 装甲を厚くしたりと細かな改良がされています。

1938年から1941年まで生産され、 約3300輌という大量生産がされました。

もちろん、ノモンハンでの日本軍との戦いや、フィンランドとの戦い、 それにドイツ軍との東部戦線を戦い、 戦後を迎えるまで現役でした。

このBAシリーズは主砲に45mm砲を搭載したのがその後の戦い方に大きな影響を与えました。

本来は偵察用車輌ですが、破壊力十分な武器を装備していたためか、常に戦車部隊と共に行動することが多かったらしく、多くが撃破されました。

BA-10

この画像はノモンハンでの日本軍に撃破されたBA-10

ノモンハンでは41輌のBA-10が日本軍により撃破されました。

ソ連で1938年1月〜1945年9月

フィンランド軍は24輌のBA-10をソ連軍から鹵獲し使用しました。

1940年4月〜1946年12月

中国では何輌あったのかは不明

1938年3月〜1946年12月


PsW 203(r) (ドイツ)

PsW203

東部戦線でドイツ軍によって鹵獲されたBA-10は、 多くがドイツ軍により使用されました。

ドイツ軍はBA-10を、「PsW 203(r)」と命名しました。

「PsW」は、「Panzerspahwagen」の略です。

ドイツ軍では前線以外に、治安警察などの警備車輌として使われましたが、バルカン半島の対パルチザン部隊の鎮圧には、この車輌は活躍したそうです。

1941年7月〜1945年5月


BA-64 (ソ連)(チェコスロバキア)(ユーゴスラビア) (ポーランド)
BA-64 AOP(ソ連)(ポーランド)(ユーゴスラビア)

BA-64

ソ連最後の装甲車は「BA-64」です。

BA -64は、それまでの四輪トラックや六輪トラックの車体をベースにしたBAシリーズとは異なり、「GAZ-64」「GAZ-67」という四輪ジープを車体にした車輌です。

開発に当たりドイツ軍の「SdKfz 222」を参考にしたこともあり、なんとなくですが似てはいますw

生産は1943年から本格的に始まり、1946 年までの間に一説によると、9110輌とも言われています。

もう桁が違いすぎて笑えますよねw

この急場しのぎで安っぽさ満載のBA-64ですが、乗員からは「猟犬」と呼ばれ、1943年からソ連戦車部隊に配備されだすと、 偵察任務や連絡任務に性能を発揮しました。

また戦後、朝鮮戦争のときには北朝鮮軍や中国軍で使用されました。

武器は砲塔に7.62mm機銃のみ

1942年3月〜1946年12月

ソ連ではFO車輌(前進観測車輌)としても登場します。

1942年9月〜1946年12月

またチェコスロバキアとポーランドはソ連軍が侵攻した後に供給されました。

チェコスロバキアには10輌

1944年7月〜1946年12月

ポーランドには81輌

LWP(ポーランド解放軍)に1943年7月〜1946年12月

FO車輌としても同じ期間購入可能

ユーゴスラビアにも3輌が供給されました。

1945年3月〜1946年12月

FO 車輌としては、1946年1月〜1946年12月


Lndsvrk 40 ItK  (フィンランド)

Lndsvrk 40

この対空自走砲は「Landsverk Anti II」、通称「L-62」とか日本では「L-62 アンティII」と呼ばれています。

当サイトで毎日、ユニットガイドをご覧くださっている方ならば、「Landsberk」と聞けば、もうピンときたことでしょう。

そうです!

「Landsverk」といえば、スウェーデンですよね。

この車輌は、スウェーデンのあの「ABランツヴェルク」社が1941年に開発した対空自走砲です。

車体には「Strv m/38」の車体となった「L-60」を改良して作られた「L-62」を使用、オープントップ(上部開放)の砲塔には、スウェーデン製の名砲「ボフォース 40mm機関砲」が搭載されています。

このボフォース40mm砲のことを「40 ItK/38」と呼びます。

ただし、本国スウェーデンではこの車輌は採用されませんでした。

フィンランドでは1941年に、 この車輌を6輌購入しました。

そして1944年のソ連との継続戦争では1ヶ月で10機のソ連機を撃墜する活躍を見せています。

また何がすごいっていうと、この6輌は全て終戦まで生き残っているところです。

そして現在も可動保存されています。

1942年5月〜1946年12月


40M Nimrod (ハンガリー)
43M Lehel A (ハンガリー)

40M Nimrod

ハンガリーでは上記の「Landsverk Anti II」をハンガリー国内でライセンス生産することにしました。

ハンガリーでの名称は「40M Nimrod」です。

1943年から生産が始まり、135輌が生産されました。

主砲の「ボフォース40mm機関砲」は、ハンガリー軍の「38Mトルディ」の20mm砲や「40Mトゥラーン」の40mm砲よりの強力であったことから、 対空用兼対戦車用にも使用されました。

そしてソ連軍のT34に対しても果敢に攻撃をしました。

(結果は知らない)

ハンガリー第1機甲師団の第51重戦車大隊、ハンガリー第2機甲師団の第52重戦車大隊に配属されました。

1942年2月〜1945年12月

43M Lehel

そしてこの「40M ニムロード」の車体を改造して「43M Lehel」という車輌が作られました。

「43M Lehel A」は、軽機関銃を1つ装備した兵員輸送車

「43M Lehel B」は、負傷兵を輸送するための輸送救急車

ゲームでは「43M Lehel A」が登場します。

Carry Capacityは10

1輌のみが作られました。

1943年10月〜1945年12月


CKD LT vz.34 (チェコスロバキア)(スロバキア)

LT-34

チェコスロバキアの戦車を紹介しましょう。

チェコスロバキアは第1次大戦以前は、オーストリア=ハンガリー帝国の一部でしたが、1918年に独立しました。

1930年代になると、各国で戦車の開発が進み、チェコはイギリスから購入した「ガーデンロイド」豆戦車をベースとして「Tancik vz.33」を開発しましたが、 これがあまりよくありませんでした。

そのためフランスから購入した「ルノーFT-17」軽戦車を改良して作られたのが「LT vz.34」です。

LT vz.34は、1934年にチェコのCKD社で作られました。

主砲はシュコダ社の37mm砲と機銃2丁

速度は「ルノーFT-17」の倍の30km/hが出ました。

しかし前面装甲が15mmと薄すぎたこともあり、生産は1935年までの50輌だけでした。

チェコスロバキアでは 半数が機甲師団に配備されました。

1935年1月〜1940年6月

スロバキアには27輌がありました。

(スロバキアはドイツとの同盟国でした)

1939年4月〜1940年6月

ドイツ軍はこの車輌を鹵獲しましたが、解体してスクラップにしています。


Skoda LT vz.35 (チェコスロバキア)(スロバキア)

LT vz.35

上記の「LT vz.34」は、CKD社で開発しましたが、この「LT vz.35」はシュコダ社により開発されました。

シュコダ社は1859年に創立され、第2次大戦までは兵器、鉄道、飛行機、船、自動車、工作機械、発電所などを製造していましたが、 第2次大戦では、ヒトラーの命令により戦車を生産しました。

チェコスロバキア軍は当初、CKD社とシュコダ社にそれぞれ新型車輌を開発させ、 どちらかを採用する形をとりましたが、採用されたのはシュコダ社の車輌でした。

この「LTvz.35」は、よくドイツ軍の2号戦車と比較されます。

重量は2号戦車が8.9t、LT vz35が10.5t

全長はほぼ同じ

装甲は、2号戦車の前面装甲が 15mm、LT vz.35は25mm

最大速度は、2号戦車は40km/h(ゲームでは14)、 LT vz35は34km/h(ゲームでは12)

主砲は、2号戦車は2cm機関砲、LT vz35は37mm対戦車砲

また副武装として、2号戦車は砲塔機銃が1、LT vz35は砲塔機銃と車体機銃の2

もちろんこれらの性能が全てではありませんが、実際にドイツ軍の乗員からは、2号戦車よりも好評であったそうです。

434輌が生産されました。

チェコスロバキアは1938年、298輌のLT vz.35を保有していました。

そしてLT vz35からなる4個連隊を持っていました。

チェコスロバキアでは、1936年6月〜1939年3月

スロバキアでは、チェコがドイツに占領された後、52輌が配備されました。

1939年4月〜1941年12月


CKD R-2 (ルーマニア)

R-2

ルーマニアは1936年、チェコスロバキアに 「LT vz35」を発注しました。

1939年まで126輌を受け取りました。

ルーマニア軍では「R-2」と呼ばれます。

R-2は開戦当時、ルーマニア軍の主力戦車でした。

1941年8月の オデッサの戦いで、ルーマニア軍はソ連軍と戦い大損害を出しながらもかろうじて勝利しますが、 ここではR-2は歩兵支援のために市街戦を戦いましたが、 装甲が薄かったためソ連軍の対戦車ライフルに苦しめられました。

その後、スターリングラードでの戦いで、ドン川を守るルーマニア第3軍にドイツ軍から使わなくなった「LT vz35」が26輌提供されましたが、1942年11月19日、ソ連軍の大反撃により崩壊してしまいます。

また、 ルーマニアはR-2がソ連軍のT34とは互角に戦えないことから、R-2の車体を改造して76.2mm砲を搭載した「TACAM R-2」自走砲を開発しました。

1937年1月〜1946年12月


Skoda Pz.35(t) / Skoda T-11 (ブルガリア)

T-11

ブルガリアは第1次世界大戦でドイツ側の同盟国として参戦したため、戦後、戦車や潜水艦、戦艦を保有することを禁じられていました。

しかし秘密裏に1935年にイタリアから「L3./33」豆戦車を購入し、1936年にイギリスのヴィッカーズ6トン 戦車を購入することができました。

1940年、ブルガリアはドイツの力を借り、チェコスロバキアの「LT vz.35」を36輌購入、この36輌は、26輌が「LT vz.35」ですが、残りの10輌はアフガニスタン向けに作られたもので、主砲が37mm A3 L40から37mm A7 L48に替わっています。

この新しい砲を搭載した型をブルガリアでは、「Skoda T-11」と呼びました。

1941年のブルガリアの保有戦車は、この「Pz.35(t)」とイギリスのヴィッカーズ6トン、それにイタリアの「L3/33」しかありませんでしたが、ブルガリアでは「Pz.35(t)」戦車に対する評価はとてもよかったそうです。

Skoda Pz.35(t)は、1940年4月〜1946年12月

Skoda T-11は、1940年7月〜1946年12月


PzKw 35(t) (ドイツ)

pzkw 35

ドイツ軍はチェコスロバキアを併合したため、チェコの 「LT vz.35」を無償で手に入れました。

完成していた297輌の車輌のうち、ドイツ軍が引き取ったのは219輌。

ドイツ軍では若干の改造を施し、名前を「PzKw 35(t)を命名しました。

第6装甲師団に配備され、ポーランド侵攻、フランス侵攻では電撃戦の一躍を担いました。

その後、第6装甲師団はバルバロッサ作戦では北方軍集団として、レニングラード近郊で戦いましたが、1941年10月、車輌は多くが損失し、残った損傷車輌も修理不可能となり、ここで 全車損失となりました。

第6装甲師団はその後、中央軍集団へと転属し、モスクワ方面で戦いました。

ドイツ軍では乗員が1名増えて4名となっています。

1939年6月〜1940年5月


CKD LT vz.38 (チェコスロバキア)(スロバキア)

LT vz38

LT vz.35の後、チェコ軍は新型戦車を作るよう要請しました。

チェコには当時、「CKD」「シュコダ」「タトラ」という戦車製造会社がありましたが、その3社が作った試作車輌のうち、最終的に「CKD」社の作った車輌を1938年に正式採用しました。

それがこの「LT vz.38」です。

チェコ軍はすぐに生産は始めましたが、チェコがドイツに併合されてしまったため、完成していた150輌は全てドイツ軍に引き渡されました。

そのため、ゲームではチェコスロバキアに登場はしますが、実際にはチェコ軍には配備されませんでした。

主砲は37mm砲と機銃が2丁。

スロバキアでは、1941年2月にドイツ軍から10輌、1943年に27輌を受け取っています。

生産数は1414輌

チェコスロバキアでは1938年3月〜1941年12月

スロバキアでは1941年2月〜1943年10月

ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、スウェーデンでも使用されました。

スウェーデンでは「Strv m/41」です。

また初期生産されたものはA型ですが、それ以外にもM型まで改良型があります。

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