Steel Panthers World War 2   JAPANESE  HQ

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戦車・装甲車 29

Praga RV (チェコスロバキア・スロバキア)(ルーマニア) 
Praga RN (ルーマニア)
Praga T-VI-R (ルーマニア)
Arttrak m/39 (スウェーデン)

Peerless A/C (ギリシャ)
M-D AC (ユーゴスラビア) 
Pavesi P4-100 (イタリア)(ブルガリア)
CKD ST vz.39 (チェコスロバキア)
Wolesley A/C (日本)
Chiyoda A/C (日本) 
Crossley A/C (日本)(中国) 
Type 92 SNLF (日本)(満州国)
Type 92 Osaka (タイ)

Kurogane OP (日本)
Type 95 Kurogane (満州国)

Praga RV (チェコスロバキア・スロベキア)(ルーマニア)
Praga RN (ルーマニア)
Praga T-VI-R (ルーマニア)
Arttrak m/39 (スウェーデン)


チェコスロバキアの「プラガ社」(CKD-Praga)で作られたトラックを紹介しておきます。

プラガ社は1907年に設立されたチェコスロバキアの自動車会社です。

自動車の生産は1947年で終わっていますが、その後もオートバイや大型車輌などを作っています。

戦争中はドイツ軍の占領下で、戦車、航空機、砲兵トラクターを生産しました。

戦前は主に輸出用に生産されました。

ルーマニア、スウェーデン、ポーランド、トルコなどに輸出されました。

「Praga RV」は軍用軽トラックです。

1935年〜1939年に3000輌が生産されました。

[Carry Capacity]は[120]

チェコスロバキアでは1930年1月〜1939年3月

スロベキアでは1939年4月〜1943年10月

ルーマニアでは1937年1月〜1946年12月


「Praga RN」は1933年から生産が始まり1955年までの20年間も生産が続いた車輌です。

40000輌が生産されました。

ゲームではルーマニアにのみ登場します。

(ルーマニアはなんでも登場します!)

「Carry Vapacity]は[118]

ルーマニアでは1937年1月〜1946年12月


最後「Praga T-VI-R」という砲牽引トラクターです。

プラガ社が製造した砲牽引用トラクターは、「Praga T」と名付けられ、「T3」〜「T9」までありました。

(タイプは様々にありますが、基本的には形状は同じです)

ゲームに登場する「Praga T-VI」について説明します。

「プラガ T6」は、1937年から1944年に生産され、約900輌が生産され、輸出用にも生産されました。

砲牽引用に設計されているため、約1000キロの重さまで牽引できました。

装甲はありません。

ゲームではチェコスロバキアには登場しません。

ドイツ軍はチェコスロバキア占領後、この車輌を使用しました。

(ドイツ軍には登場しません)

ルーマニアは1941年に350輌をドイツ軍から受け取りました。

ルーマニアでは1938年1月〜1946年12月

スウェーデンでは「Arttrak m/39」として登場します。

30輌を受け取りました。

1940年1月〜1946年12月


Peerless A/C (ギリシャ)


イギリスの「ピアレス装甲車」です。

イギリス軍は植民地での保安に装甲車輌が必要でした。

1919年、アメリカの「ピアレス社」のトラックを改造した装甲車を完成させました。

どことなく「オースチン装甲車」に似ていますが、それもそのはず。

オースチン装甲車の設計を流用して作られました。

車体の上部には2つの砲塔があり、それぞれ機銃を撃つことができます。

装甲は10mm。

25輌が生産されました。

ゲームではイギリスには登場しませんが、ギリシャに登場します。

なぜギリシャに登場するのかは分かりません。

1930年1月〜1941年5月


M-D AC (ユーゴスラビア)


ユーゴスラビア軍に登場するこの車輌は改造車輌です。

どの車輌を改造したのか不明ですが、ユーゴスラビアの人民解放軍により作られ、1944年にドイツ軍がこの車輌を鹵獲したそうです。

画像を見て、一番確率が高いのは上記の「Praga RN」ですが、詳しいことは分かりません。

1942年1月〜1943年10月まで


Pavesi P4-100 (イタリア)(ブルガリア)


イタリアの「Pavesi」社で作られた砲牽引用トラクター。

元は農業用のトラクターとして開発されましたが軍用に変更されました。

1936年から1942年まで生産されました。

不整地での走行には威力を発揮しました。

この車輌は様々な国に輸出されています。

ドイツ、イギリス、フィンランド、スウェーデン、ギリシャ、ハンガリー、ブルガリアなどです。


イタリアでは1935年6月〜1943年6月まで

ブルガリアはこの車輌をいち早く輸入し180輌を保有していました、

1936年6月〜1945年12月


CKD ST vz.39 (チェコスロバキア)


チェコスロバキアの中戦車。

以前、チェコスロバキアの戦車を紹介しましたが、この「ST vz.39」が抜けていました。
(新しく追加されたのかもしれません)

「ST vz.39」または「V-8-H」とも言われます。

チェコスロバキアの「CKD」社で、1937年に試作車輌が完成しましたが、走行テストの実験段階で多くの欠陥が見つかりました。

しかし国際情勢の悪化に伴い、1938年、チェコ陸軍はこの車輌を量産し400輌を発注しましたが、結局生産には間に合いませんでした。

「ST vz.39」はドイツ軍の「3号戦車E型」と比較されます。


3号戦車と比較すると、「vz.39」の方が速く、重量も軽く、主砲も47mm砲と優れていました。

(装甲も最大32mmでした)

試作車輌の2輌のみが作られました。

1938年10月〜1941年10月

ドイツ軍の占領後は、他国とのライセンス生産の交渉がありましたが成立せず、1941年に計画は中止となりました。


Wolesley A/C (日本)


ウーズレー装甲自動車です。

ウーズレーはイギリスの自動車会社で、1905年に創業しましたが、現在は自動車は生産していません。

日本とは1918年に東京石川造船所(現在のいすゞ自動車)が提携を結びました。

そして1924年に「ウーズレーCP型1.5トン積みトラック」を開発、この車輌が軍用車輌となりました。

ウーズレーとの契約はその後、解除になりますが、この車輌をベースに装甲車輌を開発することになります。

1928年に完成したこの車輌は、トラックの車体に装甲板を被せただけの簡易装甲自動車とも言われますが、砲塔らしきところには固定の「三年式機関銃」を装備されています。

どれくらいの生産があったのかは不明です。

1935年ごろまで満州や山東半島では部隊配備されました。

1930年1月〜1935年12月まで


Chiyoda A/C (日本)


東京瓦斯(ガス)電気工業が製作した国内初の国産装甲車。

東京瓦斯電気工業は、1910年に設立された会社で、文字通り、ガス器具を扱う会社でした。

1917年、陸軍からの要請もあり自動車部門を立ち上げました。

「TGE-MP型」と呼ばれるトラックが宮内庁に買い取られるのをきっかけに、車名を「ちよだ」と命名しました。

その後、東京瓦斯電気工業は「日野自動車」となります。

この装甲車輌は、上記の「Woesley AC」と似ていますが、こちらは6輪で、タイヤはスポークではなく、ソリッドゴムとディスクホイールになりました。

また砲塔に機銃を1丁、車体からは機銃口が3ヶ所ありました。

(ゲームで登場するユニットは車体の銃はライフル銃になっています)

車体には「愛国」の文字が書かれているのが特徴です。


約200輌が生産され、1930年代の中国戦線には使用されました。

1938年からは「九七式軽装甲車テケ」に代わっていきました。

1932年1月〜1942年12月


Crossley A/C (日本)(中国)


イギリスの「クロスレイ自動車」が製造した「クロスレイ装甲車」。

日本では「ヴィッカーズ・クロスレイ装甲車」とも言われます

クロスレイ社は、1906年にマンチェスターに設立された会社で、元は繊維機械やゴム加工の会社でしたが、1914年ごろから軍用の車輌を生産し、1958年に倒産しています。

クロスレイ社はヴィッカーズ社の傘下の元、1920〜1930年代にかけて植民地の警護用の装甲車を開発し生産しました。

その種類は6種類ほどあり、4輪タイプや6輪タイプもあります。

クロスレイ社の装甲車は主に日本軍によって使用されたことが有名です。
(海外でも)

日本では陸軍と海軍とで購入しています。

陸軍では1927年に3輌を購入、2輌は支那駐屯軍に、1輌は満州の関東軍に配備されました。

海軍でも同じ時期に購入しており、上海陸戦隊に配備されました。

なお、海軍が購入した車輌は陸軍のものとは異なっていたらしく、タイヤはソリッドタイヤだったそうです。

ここで上海陸戦隊の奮闘を少し紹介してきます。

1932年1月、第一次上海事変が勃発、ドイツ製の兵器や武器で装備された中国軍は日本軍をはるかに凌ぐ兵力で攻撃してきました。

当時、上海には多くの日本人が居留していましたが、その日本人が居留していたのが蛇口(ホンキュウ)からザホクで、そこには「北四川路」という大通りが走っています。
その北四川路にかかる橋が激戦の舞台となった「八次橋」です。

日本軍はこの居留地に住んでいた日本人の引き揚げが終わるまで、この八次橋を守らなければなりません。

13日、中国軍は日本軍の10倍の兵力で攻撃を開始。

やがて誰もいなくなった市街でも市街戦となり白兵戦となっていきます。

15日、16日と中国軍の大群を防衛しますが、ここで陸戦隊のクロスレイ装甲車が活躍しました。

その後は、中国軍の戦車の攻撃により、防衛も危うくなりますが、23日、ついに、陸軍が到着、陸戦隊は大損害を出しながらもなんとか持ちこたえました。


(八次橋でクロスレイ装甲車を塹壕化しながら防衛した海軍特別陸戦隊)

この上海での戦闘については阿羅健著「日中戦争はドイツが仕組んだ」(小学館)に詳しく書かれています。

わずか数200名の陸戦隊が、2週間もの間、10倍の中国軍を食い止めたことで、日本軍は装輪装甲車のそれまでの評価を一変させ、その後、九三式装甲自動車を導入することになりました。

日本軍では1930年1月〜1937年11月

中国軍でも同じですが、どれくらいの数があったのかは不明。


Type 92 SNLF (日本)(満州国)
Type 92 Osaka (タイ)


まず注意することがあります。

この車輌は正式には「九三式装甲自動車」と呼ばれています。

しかし欧米では間違って紹介されていることがよくあり、「Type 92 AC」となっています。

SPWW2ではまさかとは思いますが、そのまさかですw

ちなみに「Type 92 AC」というのは存在しませんが、「九二式重装甲車」というのは存在します。


(九二式重装甲車)

九二式重装甲車が何故戦車ではなく装甲車なのかは眠れないときに考えることにしますが、「九二式」と「九三式」を間違える理由がよく分かりません。

かつて欧米の文献にはそのように紹介されていたのかもしれません。

(英語のWikiでは「九三式」と紹介されています)

上記の「クロスレイ装甲車」が上海事変で大活躍をしたことにより、日本海軍は「石川島自動車製造所」に新しい装甲車の発注をしました。

車体には「スミダ九三式」という6輪乗用車を使用したと言われます。

砲塔には「ヴィッカーズ機関銃」を装備、車体には前と左右に形4つの機銃口があります。

そして砲塔の横に対空用の銃架が取り付けてあるのが画像でも確認できます。

これは上海事変の教訓から取り付けられたもので、対空用としてではなく市街戦での高層建築への攻撃用だったそうです。

1933年に正式採用され、生産は3輌、あるいは5輌だったと言われています。

そのうちの3輌は終戦まで生き延び、上海海軍特戦隊に配備されていました。

なお「SNLF」というのは、「Special Naval Landing Forces 」の略で、「海軍特別陸戦隊」のことです。

日本では1933年1月〜1946年12月

満州国では1933年1月〜1946年12月

タイ国でも登場しますが、これは現存していたかどうかは不明です。

タイに登場するユニット名が「Type 92 大阪」となっていますが、これも欧米の車輌の紹介にはなぜか「大阪」と記名されていることがあり、間違いと思われます。

タイでは1942年3月〜1946年12月


Kurogane OP (日本)
Type 95 Kurogane (満州国)


正式名称「九五式小型乗用車」、通称「くろがね四起」(よんき)

日本内燃機(現在の日産工)が開発した日本初の四輪駆動車。

少しオーバーに表現すれば、ドイツ軍のキューベルワーゲン、アメリカ軍のジープに相応する日本陸軍の主力となった乗用車です。

陸軍の主戦場はどこも道路が整備されていない不整地であったが、この車輌はそんな道路事情をお構いなしに走破しました。

1935年に試作車輌が完成し、その後、マイナーチェンジをしながら、1944年まで4775台が生産されました。

乗員2名〜4名用と人員輸送用として、偵察・連絡用に用いられました。

(ゲームでは「砲牽引車輌」、また「FO車輌」(前進観測車輌)として登場します)

日本、満州国では1935年1月〜1946年12月

なお2013年、京都市内の自動車修理工場で原型と留めた状態の車輌が発見され、それを元にタミヤが模型を製作しました。

現在は復元資金を募り、復元が進められています。

「くろがね四起復元プロジェクト」のツイッターはこちら


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